努力しなきゃ手に入るものだって手に入らない

昨日のこと、ふと環境政策の講義でノートテイクに違和感を覚える。講師はPowerPointを使ってるのにテイカーがレジュメを使っていない、喋るスピードがかなり速いからどう考えたってノートテイクだけで授業を追うことができる状態じゃない。
他学部のノートテイクに口出ししていいか迷ったからうちの学生支援室の職員に相談、電話で了承をもらえたから講義が終わった後に話を聴いてみたところ、先生がレジュメを配布してくれないと。理由もよくわからないからとりあえず講師に交渉してみた。


先生の言い分は、専門書やマスメディアからの情報を基に作った個人情報とも言える資料をすべて提供することはできない、だからと言って専任講師でもないから聴覚障害学生のためだけにレジュメを作成する時間もない。基本的に学部生にレジュメを配布するつもりはないし、特別扱いしてレジュメを渡すのは聴覚障害学生を差別して甘やかしてることになる。
冷たいことを言うようだけど、ノートテイクのためにこれ以上講義のスピードを落とせば、今2割減らしている情報がさらに少なくなって内容がもっと薄くなる。個人的に教科書や参考書、新聞を読めば勉強することはできるし、それでもわからないことがあれば質問はいくらでも受け付ける、だから知りたいけどわからないことがあれば聴いてくれ、ってことだった。


でもノートテイカーの役割は講義の内容をできるだけリアルタイムに利用者学生に伝えることにあるわけで。その場で理解する必要がないのなら、講義をビデオ撮影して文字起こししたものを何回でも繰り返して観ればいい。
耳が聴こえないから音声の情報が伝わらない、でもノートテイカーが頑張って内容の60%を文字にしても、利用者学生がその文章から理解できるのはそれより少ない40%くらいかもしれない。聴覚障害を持ってるために100%の情報を受け取る機会が最初から与えられていない、それってどうなんだろう?って思っていた。


それでも僕の講義が(環境政策の)すべてじゃないって返されて、障害者が何倍も努力しなきゃそのディスアドバンテージを跳ね除けられないって俺に返してきた先生。それが簡単なことじゃないことも理解してるうえでそんな言葉を突き付けられて俺は自分の言葉を飲み込むしかなかった。
人にものを教える誰かは絶対的な法じゃなくて、あくまで教えられる誰かを導くための標でしかない。知りたいならいくらでも努力して食らい付くしかない、興味を持ったなら諦めないでとことん追い求め続けるしかないんだよな、努力し続けるのが無茶苦茶しんどいってわかっててもさ。